衝動
六歳の頃、私は何気なく母親にこんなことを問うたことがある。「どうして、私たちは人を食べないの?」と。
それは勿論私の純粋な好奇心が生み出した質問であり、そこに何かしらの精神疾患であるか何かを見出すことは少なくとも私には出来ない。ただ私は豚や牛を食べて人を食べないのは何故か、という疑問を解決するという義務感に基づいて質問をしたに過ぎない。

母親は私の問に一瞬たじろぎ、まず「それ、他の人に聴いたの?」と質問を返した。
私は首を横に振ると、彼女は私と視線の高さを同じくするようにしゃがんで私の肩に手を置き、深刻そうな顔で言った。

「いい?私たちは人を食べないの。それはね、共食いといって、とてもいけないことなのよ」
「どうして?」
「とにかくいけないことなの。他の人にそんなの言っちゃ駄目。変な子だと思われちゃうわよ」

詰まるところ、母は私に同意を強制しているのだと幼いながらに私は理解した。首を強く縦に振ると彼女は仏頂面を一瞬で輝かせ、私に夕食の後のデザートとしてプリンを与え、私を布団に寝かせた。



私は現在、6歳の頃どころか10歳の頃の話すらほとんど覚えていない。だが、この逸話だけは何故か21歳になった私の記憶に根強く残っている。
それは恐らく、「人を食べてはいけない」というのは何故かという根本的な疑問が解決できていないからだろう。そう私は分析している。
そして私は、未だにその疑問を解決できていない。それどころか私には今、「人を食べてはいけない」という戒めに反逆したいという欲求が強く溢れている。



思えばどうして共食いはいけないことなのだろう?私はその疑問を解決するに最もふさわしい手段であるインターネットを用いて調べてみた。
wikipediaに私の望む解答は載っていなかった。同種の個体同士について喰い合ってはいけないという理由の説明など書いていなかった。

では、と思って私はgoogleの検索欄に「食人」と打った。
歴史的に行われたカニバリズムについて幾つも調べているうちに外は夕暮れからすっかり真っ暗になり、ついには朝になろうとすらしていた。
それ程までに興味深く、また私を興奮させるには十分な事であったのだ。

宗教的に、儀式的に、あるいは文化的に行われてきたカニバリズムもある。また、嗜好的に起こったカニバリズムもある。
私は後者だろうな、と思った。そう自覚して初めて、「私は狂っているんだ」とようやく考えた。

そう、私は狂っている。9時間以上もカニバリズムについてネットサーフィンをする大学生が正常なわけが無い。精神科医に診てもらったほうが良い類の人間だ。その事に思い至ると私は薄笑いを堪え切れ無くなった。
私は特別である気がした。何か誉れ高い賞でも貰った気になった。溢れ出る高揚感を留めることは出来なかった。

嗜好的なカニバリズム。
私はそれを、身で以って体感した。人を、食してみたいと強く思った。

「食べてみたい―――」

口に出す。四畳半のアパートのMacintoshの前でそうつぶやいた。ひどく笑いたい気分になった。面白いバラエティ番組を見た時などとは比べられないほど笑い転げたい欲求に駆られた。
しかし現実のところそれは近隣住民に迷惑なことであるので私は我に返ることにした。
我に返ってみて「そういえば」と口に出した。狂ってると自分で自覚しながらも、倫理的な事について配慮してしまう我が未だにあることに気がつくととてもおかしい気がした。食人衝動に駆られる人間でも、夜中に騒いではいけないと思ってしまうことはあるのだなと考えた。歴史的な食人者もまた、そういうことを考えて生きてきたのだろうか?とふと疑問に思った。しかしその疑問が解決されるわけは勿論無い。一体どこの誰が、「私は食人者だが、夜中に騒いではいけないということには気を遣っていた」などと書くのだろうか。




最初に食べたい人間として思い至ったのは彼氏だ。
大学で知り合った彼は、はっきり言って不細工でもかっこいいというわけでも無く、ただ本当に平均的な人間だった。
やけに引っ込み思案で、あまり自分から話をしたりデートに誘ったりもせず、その癖寂しがり屋な男の子だ。

メガネが似合う彼に告白された時、私は彼のことを覚えてもいなかった。何度か私たちは会ったそうだがそれは勿論誰かを介した出会いであったはずであって、詰まるところ私は彼を背景としてしか見ていなかったのだろう。

私はその告白を断ろうと思ったのだが、しかし戯れにかは知らないが私はその告白を受け入れた。合わなければすぐに別れてしまえばいい、そんな気持ちであった。
しかし私は彼とのデートを繰り返していくうちに彼に惹かれていった。彼は平凡で気弱な人間だったけども、それが私にはちょうど良かったのだろう。

遊園地に行ったりカフェに行ったり、ある時は海に行ったりもした。会話を重ねる度に彼の良さが段々わかるようになってきて、私はとても不思議な気持ちになった。どうしてこんな人をこんなに好きなのだろうと自問したりもした。そしてその疑問は、彼と会う度に解決されるようになった。

思うに、彼は私の足りない部分を補ってくれていたのだろう。どこか正常じゃない私には、絵に描いたように平凡な彼が常日頃合っていたのだ。


そうしていくうちに付き合って一年と半年くらいになり、私が日頃抱いている食人衝動は段々と強くなっていき、現在私は彼を食したいと考えている。




人を食べるということは即ち人を殺すことである。誰かが殺した死体を食べるのを別にすればそうなることになる。死体を売ってくれる人間なんてどこにもいないし、自然と死体に遭遇するチャンスなど滅多に訪れない。
つまり死体を自ら作らなくてはならないということである。そしてその事が現在の私をひどく悩ませている。殺す方法やアフターケアもそうだが、何より彼に対する殺人衝動など欠片もないからだ。

おかしな話だ。人を殺したくもないのに、人を食べたいと思っている。その癖他の人に対する食人衝動はそれほど強くない。
食べたいのは彼だ。他の人でも構いはしないが、出来ることなら彼を食したいと願っている。
しかし、彼を殺すということについて私は上手く考えられなかった。彼の内蔵や皮膚を喰らう私を想像するのは難くないというのに。



私は一日大学を休んだ。「風邪を引いた」というひどく便利な理由を用いればバイトにも出ずに済んだ。
「こんな時期なんだし、無理せず休んでね」とバイト先の本屋の初老の店長が言うのは、最近巷で流行ってるインフルエンザを考慮しての事だろう。
咳をするフリをしてごまかしている間、「本当に風邪ならきっといらない事を考えずに済んだのに」と思わずにはいられなかった。どうせ一日中悩んで過ごすつもりなのに。



布団にうずくまる私はが想像しているのは彼のことである。
彼を殺すところを上手く考えようと色々試みてみた。包丁を手に取り、それを振り下ろした。吹き出す血を想像した。創造の源泉はホラー映画のワンシーンを幾つも切り取ったもので、しかしあまりにその要素が強すぎて想像は徐々にリアリティを離脱し、やがて殺す対象が彼から誰か―――名の知らぬ男優に変わった。映画のシーンを辿るだけになり、最早彼を殺す想像などではなく先日見たホラー映画の内容をなぞる事になった。それに気づいた時には既に夕暮れである。

携帯が震えた。私は長らく聴かなかった世界の音に驚いた。想像の世界から引きずり降ろされた感覚を久方ぶりに味わうと、その余韻と布団をひきずったままテーブルの上の携帯電話を開いた。
彼からだ。名前を見た瞬間心臓が引き締まる思いがした。何せ、今の今まで殺すところを想像していた(実際には殺す想像を何とか試みていた)相手なのだ。

ドキリとした感覚を覚えつつ電話に出ると、彼は開口一番に「大丈夫?」と聞いてきた。いつもの彼だ。そう思うと、何となく緊張がほぐれた。
それから気の抜けた返答を幾つかしてやり過ごすと、彼は「明日そっちに行くよ」と私に言った。
心臓が高鳴るのを感じた。それは期待か、それとも厭忌か。反発する感情を感じながら私は「うん」と答えてしまった。

そう、答えたのだ―――その回答が私にとってどんな意味を持つのか、彼は知る由も無い。
彼は「うん、それじゃあまたね」と言って電話を切った。私はツー、ツーという音を聴きながらずっとそこに呆然としていた。


私は叫びたかった。「私はあなたを食べたいと思っているの」と。「でも殺したくはないの」と。「それをずっと決めかねてるの」と。
彼はどう思うだろう?変な冗談だと思うか、それとも厭悪を感じるか。どちらにしても良いと思う。ただ私の意志を聴いて欲しいだけなのだから。


ひどく眠かった。
そう言えば昨日、カニバリズムについて調べてからというのものずっと寝ていないのだ。

彼を殺す計画を実行するか、留まるか。一切の答えは出ていなかった。
欲求に従うか、それとも倫理性を信ずるか。そういえば今日はずっとこんな風に葛藤してばっかりだ、と思う。そして笑ってしまうようなこの感情は厭世的なところから来ているのだろうか。

テレビでは凶悪犯罪の番組をやっていた。今の私に丁度良い番組だ、と思って眠い目をこすって見ていた。
とある昔、内蔵を全て引きずり下ろして薬のようにしていた男がいたらしく、ちょうど再現VTRを流していたところであった。
腹を切って中身を取り出している。喉仏をナイフで切って殺した後に肉切り包丁で手際よくこなしている様子だった。勿論その様子はぼやかされていたし、内蔵を見せるなんてもっての外である。そのせいか知らないが、私にはその出来事が一切リアリティを持っていないように思えた。実際の人間がやっている様子なのに、しかし下手なパラパラ漫画を見せられているような感想を覚えた。


そういえば、と思いだした。前にも医療番組でこんな感じに残酷なVTRが流れていた。
その時私は彼といっしょにモツ鍋をつついていて、正直言って飯時に見るには趣味のいささか悪い類のものであった。
私はそれを少し不快な気持ちに見ていて、彼が同じ感想であると確認してからテレビを消した。バラエティを見る気分でも無かったのだ。

自分の皿のモツを減らそうと作業に取り掛かろうとすると、彼が自らのモツに手を付けないところに気づいた。
私がどうしたのかと問うと、「あんなものを見た後じゃ食べられないよ」と言った。

「どうして?」
「どうしてって、そりゃ……むしろ食おうとする君に驚いたよ。」
「そう?」
「普通は、食べられなくなるものだけど……」

俯いてしばらくの躊躇の後に彼はテーブルを立った。勿体無い、と思って彼の分も食べ、鍋に残っていた大部分をそのまま残すことにした。明日も食べられるだろう。


彼が帰った後私は彼の言葉を思い出していた。そしてその意味を理解しようとしていた。
確かにご飯を食べている時に見るには情緒の欠けていた映像だ。しかし、だからと言って彼がそこまで拒否反応を示すとは思わなかったし、何より彼の最後の言葉が突き刺さっていた。

『普通は、食べられなくなるものだけど……』

普通は?
私はその真意を思いつこうとしていた。どうして、普通は食べられなくなるのだろう?内蔵の描写があったから?腸を短くする手術に何かしらの関連性が?
では私は普通では無いのか?と思う。人の内臓の描写を見て豚や牛の内臓を食べたくなくならない私が異常であるのか?と。

そうこうしている内にようやく私は気づいた。私は―――そう、人の内臓描写を気にしないどころではなく、別に食べようと思えば食べられる。いや、食べてみたいと思っている。そんな事にようやく気づいたのだ。



凶悪犯罪の再現VTRを見たパネラーの反応を見て私はそんな出来事を思い出していた。そしてその時から、私の心の片隅にはずっと食人欲求が在ることに思い至った。はっきりと、その時に感じたのだ。それが今、ほぼピークの状態に感じているのも。

いっその事、と思う。こんなに悩むなら何か思い切る動機があれば良いのに。そう、何か、私の衝動を煽るような―――


衝動?
そう、衝動だ。私は、そんな事にも気づかなかったのか?

薄笑いを浮かべて私は今まで気づかなかった簡単な方法に至らなかった浅慮さを責めた。
そうだ、何も今決める必要性は無い。要は衝動なのだ。衝動のまま殺し、食らう。それこそが私の望むことなのだ。本能的なソレこそが快感であるのだ。

明日家に彼が来る。その時に感じた衝動のまま行動すれば良い。
幸福とはつまりそう言うことだ。生理的な欲求に従い、衝動に突き動かされるまま貪る。そうすることが幸せであり、それを抑えこむことで我々は今を生きている。最大多数の最大幸福を考え、自らの倫理性で本能を無視する。

でも違う。私にある倫理性を無視することで私は初めて幸福になれる。そうすることによって失われる幸福もあるが、しかし彼はわかってくれるだろう。申し訳ないが、これは私の幸福の優先するままであるのだ、と。

これ以上ない恍惚を味わったまま私は床についた。すっかり眠気は私の頭を支配していて、流れ出るエンドルフィンを抑えこんで私を睡眠状態にさせた。まどろみの中、彼の笑顔を想像した。彼の内蔵を想像した。ああ、ひどく明日が楽しみだ。こんなに明日を待ち望んでいるのなんて、きっと子供の頃のクリスマスイブ以来だななどと思いながら深いところに落ちていった。



目が覚めると、すっかり朝日は高く登っていた。ついでに時計の針も上のほうを指していた。丁度12時になったくらいで、それは私が12時間以上も寝ていたことを示唆していた。
布団から抜けだしてテーブルに目をやると、そこには携帯電話と包丁があった。そう、今日は決行の日だ。私が倫理的な「人間」から生物的な「ヒト」になる日だ。DNAに刷り込まれた欲求を満たす日だ。再び薄笑いを私は浮かべた。

呼び鈴が鳴った。彼からだ。確信すると、私はひどく緊張した。私はこれからどうするのだろう?本当に殺してしまうのか、それともたじろいでしまうか?
どちらにせよ私の選択だ。それに従おう。それが最良の解答なんだ。そう自分に言い聞かせ、包丁をテーブルの下に隠した。そして玄関に向かって言った。
「どうぞ―――」と。
〈了〉
猫まっしぐら(仮
2012年01月19日(木) 22時33分00秒 公開
■この作品の著作権は猫まっしぐら(仮さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
大学の入試科目でショートストーリーを使うので久方ぶりに書いて見ました。
少年少女良い子の皆に捧ぐお話です。何卒よろしくお願いいたします

この作品の感想をお寄せください。
初めまして、猫まっしぐらさん。リストバンドと申します。

上手く感想する事が出来ません……

作品はとても面白いです。ですが、どの様に伝えたら良いのか……御免なさい。

大学入試頑張って下さい。
40 リストバンド ■2012-01-20 18:19 ID : tTi5pf.9CIQ
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合計 40
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