フィロソフィアの毒芽 1
気付くと背中に硬く冷たい感触が広がっていた。
それが硬い床であることに気付くまでには大して時間はかからなかった。彼---設楽水戸には何度か床で寝た経験があったのだ。アパートのフローリングで横になった事もあれば、中学校の体育館で一晩を過ごした事もある。なので彼は特に疑問に思う事もなく体勢を起こして、それから辺りを見回した。

密室だ。

今度こそ彼は困惑した。
光源は一つ…中央の豆電球だけで、そのおぼろげな明かりは恐らく鉄製であろう壁を視界に写していた。そこで彼は窓が一つもない事に気付く。扉らしき扉も見つからない。だが、風がどこからか入ってきている気がする。

この部屋はなんだ?
このシチュエーションは何を意味している?

彼はこの状況が只事じゃないと確信した。今大事なのは自分が置かれている現状の分析にただならない。
だから彼は記憶をたどることにした。ここに運び込まれるまでの記憶を。
それは春も過ぎた、少し暖かくなった日だ。


―――


設楽水戸。
彼は山形でも有名な公立高校の生徒で、そして校内において数々な異名を持つことでちょっとした有名人になっていた。

サボり魔。
ギャンブルジャンキー。
ドクペ中毒。
セクハラ常習犯。

高校二年生である彼は、その出席日数と裏腹にかなりの有名人であった。上級生からは忌避され、後輩からは畏怖の念で見られる。同級生からの目線は様々であるが、たいていロクなものでもなかった。特に女子からは。

成績は中の下、あるいは下の上。ろくずっぽ授業も聞いていない彼が追試をほぼくらっていないのは、ひとえに彼の地頭の良さ故であることは特に疑いようの無いことである。どんなに難しいテストにしても必ず30点より上である彼に一部の教師は頭を抱えている。

出席日数は実は大して計算していない。というのも、めんどくさければ行かない、暇なら行く、というスタンスを貫いているからで、一週間丸々顔を出さないときもあればその逆もあるからだ。
一時期は彼の出席日のパターンを解析しようという試みもあったのだが、本人の「気まぐれだよ」という発言とあまりにランダムなパターンに解析班のほぼ全てが匙を投げたようだった。しかし一部…といっても一人だけだが、未だに出席したかどうかを記録する生徒はいる。

カーテンの隙間から差し込む日差しで設楽は目を覚ました。7時45分、なんていう学校に行くのに理想的な時間に目を覚ませたのは彼にとって奇跡に近いものがあった。
その日は水曜日…祝日である月曜日と彼の自主休講日である火曜日を挟んで、4日ぶりの登校である。あくびを噛み殺しながらカーテンを開け、晴れの日の葉桜を数分程度眺めてからのそのそと制服へと着替え始めた。
いつも通り別段理由があるわけでも無く、朝早く起きたからとかいう理由での登校だ。少し面倒ではあったが、しかし登校する理由は一応彼にはあった。

…設楽君、休んじゃダメだよ。

そう言った女の子の、涙まじりの言葉を思い出して苦笑いがこぼれた。それで男子からはからかわれ、女子からは本気で責められた新学期の始めの頃を思い出した。なので彼はまだだるさの残る体を引きずって学校に行くことにしたのだ。



この高校の男子生徒の制服は学ランである。一応夏になればYシャツのみの登校が許されるが、桜が散ったばかりのこの季節ではまだ早すぎる。

予鈴五分前の校門にはそれなりに生徒がいた。急ぐ者もいればマイペースに歩く者まで様々だ。そしてその中で設楽はよく目立っていた。何故なら彼はまだ肌寒いこの季節にYシャツ一枚で歩いてくる猛者なのだ。スクールバッグを肩にかけながらのんびりと歩くその姿にみな眉をひそめた。中には設楽の悪評を知っている者もいて、さっさと校舎に逃げ込んで行く姿もあった。

顔が知れ渡る、というのは正直彼の望むところではなかった。もうちょっと地味に生きていたいというのが彼の本音なのだ。だがしかし、残念ながら広まった評判というのは止めようもないし、かといって今更ライフスタイルを変えてしまうというのも変だったので、だったらマイペースに生きてやろうということにしたのだ。

二年生の教室がある二階に着いた辺りで、設楽はある人物を見つけた。その男は2-2教室の前でのんびりとマウンテンデューの缶を飲んでいて、予鈴が鳴ったというのに教室で座っているという素振りを見せようともしなかった。

「よう、桜庭」
そう言って設楽は中学時代からの知り合いである桜庭壱の肩を叩いた。桜庭はびっくりして少し缶を揺さぶってしまったが、しかし中身がこぼれるということはなかった。

「なんだ、設楽かよ」と少し安堵した様子で彼はまた缶に口をつけた。少し喉が乾いたので設楽は少し分けてくれといった意味を込めたジェスチャーをした。桜庭はしばし逡巡した後にニヤリと笑ってその缶を手渡した。設楽はその様子に疑問を感じつつ飲もうとした…が、中身は出てこなかった。

「…なんだ、中身無いじゃんかよ」

そう、マウンテンデューは既に飲み干されていたのだ。

「欲しかったら自分で買えよ」
「やだよ、もう予鈴鳴ったし。じゃあな」

空き缶を桜庭の胸に押し付けて、設楽は2-1教室に急ぐことにした。8:35のベルが鳴ってしばらくしたら担任が来てしまうので、その前に教室に入ってしまいたかったのだ。

「おい、明日は"木曜日"だからな、わかってるよな」と背後から桜庭の声が聞こえた。
それが校内恒例の賭け金ありゲーム大会、通称"木曜日"の事であると合点がいき、後ろ手に手をひらひらさせて適当な返事をした。
正直のところ、設楽は最近あまりそのゲームに出たくなかった。小規模だったプレイヤー達のサークルが、最近になってちょっとずつ肥大化して来たからだ。
麻雀やトランプに500円か1000円程度を賭けていた去年の夏を思い出す。現在は人数も賭け金も増えて、それに伴いゲームは複雑になった。トーナメント方式のようになってゲームは時間がかかるようになったし、ルールは厳格になったし、何よりプレイヤーの真剣度が増した。設楽にとって"木曜日"とはもっとゆるく、勝っても負けても後腐れなくプレイ出来て、なおかつ終わったあとに握手が出来るような環境だったのだ。それは"木曜日"の噂が少しずつ広まるにつれて変わっていった。
その変化を桜庭を含めた、設楽以外の初期メンバーは好ましいものと受け止めた。彼らはもっとエキサイティングなゲームを求めていたし、設楽に食い物にされている現状を打破したいと思っていたのだ。ゲームのほとんどを、設楽以外が提案したゲームであるにかかわらず設楽が支配していたためである。麻雀だろうがモノポリーだろうが大富豪だろうが、設楽はそのゲーム達のイニシアチブを容易に獲得出来ていた。それは"木曜日"の規模が大きくなった去年の冬からも変わりなかったし、サボりがちになった現在もそうだ。相手が生徒会副会長だろうと、初心者の後輩だろうと、彼はなんの遠慮も無しに叩き潰して金をむしり取る。そうする事で彼は"木曜日"の新参組から疎まれるようになっていった。その事も彼が"木曜日"に行きたくなくなった理由の一つである。

気分が少し重くなってしまったが、気にせずに彼は2-1教室のドアを開けた。席に座りながらおしゃべりに興じていた生徒達が一瞬静まり、設楽の顔を確認した後にほぼ全員が一つのところを見た。その目線の先にいたのは「委員長」のあだ名を持つ女の子で、彼女は設楽の姿を認めると慌ててノートを取り出した。その小動物じみた可愛さに微笑ましい気分になった設楽は、一番後ろの自分の席に座って隣の席の委員長に声をかけた。

「おはよう、南ちゃん」
「あ、えっと、おはよう、設楽君」

来ないと思ったよ、という周りの野次を適当にかわしつつ彼女の大学ノートを覗き込んだ。そこには彼女お手製の今月のカレンダーがあって、日付の下にはマルかバツかが付けられている。今日の日付はマル。昨日はバツ。
そう、隣に座る気弱で小柄だがしっかり者の女の子、南 翠こそが彼の出席パターンの解析をしていた一味の一人で、そして今でも出席の有無を記録してくれている者である。

「どう?出席日数足りてる?」と他人事のように聞くと微かに頷いて、「このまま行けば大丈夫だよ。休まなければね」と南は返した。それが進級して同じクラスになった彼らのいつもの会話だった。南は出席パターンの解析というよりは最早彼の出席日数の計算をしているようなものなのだ。このクラスが席替えをしない事は実は担任によって公言されているため、つまり彼らは一年間隣の席になることが確約されているのだ。
設楽は、というとあまりそのことを気にしてはいなかった。元々南とはちょっとしたつながりがあって、だからこのクラスで一緒になった時には運命じみた何かを感じたものだった。
クラスの中には彼らをカップルだと勘違いする連中もいるようだったが、それもまあ当然である。南は普段男子とはあまり喋らないほうだし、ましてや女子からはあまり良い目では見られていないセクハラ魔と笑い合うなどほぼ論外なのだ。
しかし南は現に設楽ととりとめのない幾つかの話をしていて、設楽もそれに相槌を打っている。その様子を傍から見たらそれはもうカップル以外の何物でもないし、出席日数の計算をしてあげていたりたまに昼の弁当を分けているところを見ると最早嫁といっても差し支えないだろう。実際そうからかわれるのも珍しいことでもないし、その度に南は赤面して設楽は適当に否定しておくといった様式美と化したやり取りが行われている。

担任の先生が5月病を必死に押し殺したようなしかめっ面でクラスに入ってきた。入ってくるなり出席を取り始めた数学教師は設楽を見て眉間の皺を多少なり増やしたようだったが、特に何も言わずに出席を取り続けた。彼もまた当然設楽に思うところがあるらしかったが、同時に設楽に何を言っても聞いてはくれないことを知っていた。特に教師の言うことなど気にも留めない人間であることを、その数学教師は一年とちょっとの経験で思い知ったのだ。



その日の授業は15時過ぎまであったが、その全てを設楽は聞き流していた。教師の声とチョークの擦れる音、生徒がシャーペンを走らせる音、息遣い、風の音、そんなBGMが彼にとっては少し心地良かった。元々あまりメロディーのある音楽が好きでもない彼にとって、環境音は優れた音楽の一つであるのだ。

チャイムが鳴って生徒たちが大きく伸びをするのを彼はのんびり眺めていた。緊張の糸が緩んで笑いが漏れていくその場面を見て、設楽はようやくこの日の授業が終わったのを悟った。彼も少し伸びをしてあくびを漏らした。今日はとっとと帰って寝ちまおう、なんて思ってカバンを机から引き剥がした彼はふと、誰かに呼び止められた気がした。

南ちゃんだろうか?なんて振り返るがそこに南などいなかった。後ろにいた男子生徒が言うには南は掃除当番でどこぞの教室に行っているらしかった。その男子生徒にしてもわざわざ設楽を呼ぶ用事など無さそうだったので幻聴だということにした。

―――幻聴。

最近よくある気がする。いつからあるか、どんな内容だったかなどとは覚えてないし、別に大したことでも無いので気にも留めなかったが、その異物感は確かに存在していた。
胸の奥に異物を抱えているようなそんな不快感。最初は些細だったのだが、ちょっとずつ大きくなっている気がして嫌な気分がする。それはまるで、小さな雑草が設楽の住んでいるアパートの玄関前のアスファルトに生えた時と似ていた。あの時も完璧な景観を台無しにされたような気がして気分を害されたのだった。実際のところ大したことでもないのだが、それでも彼は感情をざわめかせる何かを感じてしまったのだ。

その声は設楽を呼ぶ声だった。シタラ、とだけ頭のなかで囁く声。
別にそれ以外は特に無い。何かの精神の病気というわけでもなんでもなさそうだったが、その声が不定期に彼を呼ぶのでつい振り返ってしまうのだった。

だから彼はため息をついて教室を出た。ちょっとしたノイローゼになりそうだな、なんて笑いそうになりながらも掃除中に談笑している男女の群れを横目に階段を下る。

くだらないな。
という言葉が喉から漏れそうになる。最近はそんなメランコリックな単語をよく口走りそうになるのだ。
中二病じゃあるまいし、などと思うのだがしかしつい思ってしまう。そんな自分がなんだかおかしく思えた。感情のコントロールがあまり上手くいってないのか?それとも理性の方か?どちらにしてもあまりいい傾向じゃなかった。

そう、それは何かの芽が生えたようなイメージを想起させる。

芽?
なんで芽なんだろう?

違う。俺は、こんなことを思っていない。

「思っていない。」

つい思ったことを口に出してしまう。それに気づいて踊り場で立ち尽くした。
何かがおかしい。脳が勝手に言葉を紡ぐのだ。それはさながら思考の芽が生えたような、そんな……

芽?
やっぱり、芽のイメージが?

「……今日は疲れたんだ」

そう独りごちて階段を下り始める。階段をほうきで掃いていた女子生徒が迷惑そうな視線を隠そうともせずにこちらを見ているが、特になにも言わずにその前を通り過ぎた。見たことがある子のような気がしたので声をかけて適当なやり取りを交わしても良かったのだが、そんなことをする気力すら湧かなかった。一刻も早く一人になりたかった。自分が自分じゃないようだった。

やっぱ中二病じゃんか、なんて心で誤魔化しながら昇降口の下駄箱の前にたどり着いた。そこで額が濡れている気がして手で拭うと、それは汗だった。まだ春も去っていないこの時期に汗だって?じゃあ、これは冷や汗か?

何も考えまいと靴を取り出して履き替える。学校からは大して距離はない。とっとと帰ろう。帰って寝よう。疲れたんだ。

ふと……昇降口の前に誰かが立っていて、目が合った。その女子生徒には見覚えはあったが、しかし名前までは覚えていなかった。女子高生というよりは少年のような、あどけない顔立ちを残した女の子だ。誰だったろう?確か桜庭と同じクラスだったような……

「君は、どうなるんだろうね?」

意味深なセリフが聞こえた。その言葉の意味を考えようとした彼に、さらなる言葉が浴びせられた。

「芽が生えるといいね、設楽君。」

芽?
なんでここで、芽なんだ?

「それってどういう……」

と聞きかけて、そこで何か、痛みのような感覚が彼を襲って視界が急に霞んでいった。背後に誰かがいたのに気付いたのは床に倒れた直後で、やはりその人間にも見覚えがある気がした。それが誰か判別しようと試みる前に意識はぷつりと途切れた。
それが記憶の最後だった。
しぎゅーか
http://sashimiumu4.diarynote.jp/
2013年06月23日(日) 23時25分42秒 公開
■この作品の著作権はしぎゅーかさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ここで書くのは久々です。何卒よろしくお願いします。

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