短文(あるいは彼女の吐いた血の量について)
その女は二番線の電車に飛び込んで死んだのだそうだ。

僕はそんな話をかつて同級生であった男に聞いた。名前は忘れたが、如何にも平凡な顔つきとそれに見合った名前が特徴的だった。
氏曰く、偶然その場に居合わせて声を掛けようと近寄ったらホームから飛び降りて、結局その日は何も喉を通らなかったと笑い話にしていた。なんとも趣味の悪い話ではあるが、酒の肴としてはありえなくもないものだろう。

その飛び降りた女の事は今でもよく覚えている。なにせ彼女とは半年前まで同棲していたのだ。一年前に再開して付き合いだして、それで半年前に何も言わず突然僕の借りている安アパートから姿を消した。本当に突然だった。
僕とかつて同級生だった男は、つまり飛び降りた女の葬儀にて十何年ぶりの再開を果たして酒を飲みながら話しているわけである。呑気なものだった。

年末の小さな葬式には30人前後と思われる程の数の男女が退屈そうに座っていた。火葬場にて特に誰も感慨深いといった表情をしていなかったことから、彼女があまり人望の厚い人間であったとは考えづらい。強いて言うなら、一応の身寄りであった親戚が欠伸をしながら挨拶回りをしていたのがなんとも不憫であったとしか感想は抱かなかった。その挨拶をするべき人の数だってまちまちで、葬式だって特段金がかかってる風ではなかった。

それで僕らは特に会話の弾まない飲み会を抜けて二人で飲もうと安いバーに逃避行した。彼は僕のことをよく覚えていたらしかったが、生憎僕は顔を見てもイマイチ思いだせはしなかったし、ニ、三時間話した後でもなんだか名前も顔もフワッとして思い出しづらい存在という認識でしか無い。
「まあ、美人でも不細工ってわけでも、人が良いとか悪いとかそんな人間じゃなかったしな。」そんな平凡を絵に書いた男が焼酎をグイッと極めて呟いた。「ただやたらと暗かったな。」
「ああ、そうだったかな。」思い出すふりをして僕はそう返した。「そんなに暗かったかな。」
「記憶が正しけりゃな。いつも俯いてたし、自信なさげだったし。」
そうだな、そのとおりだ。そういう人間だった。僕は心のなかでそう反芻してみた。ちょっと空しい気分だった。



まあなんとも暗い人間だった。それだけは誰の目から見ても明らかだった。
彼女が欲していたのは優しく接してくれる誰かで、それ以外の物は副産物程度の物でしかないように思われた。太るのを恐れていたのも、よく思っていることを口にだすのもそれで、つまり僕はそんな彼女を放ってはおけない金づるでしかなかった。

しかしなんとも助かることに彼女は全くもってお金のかかる存在じゃなかった。なにせ外には出たがらないし、全然食べ物を口にしないし、たまに欲しいといったら古い洋楽のリマスター盤くらいだ。確か誕生日に僕はポール・アンカのCDをあげたのを覚えている。「ダイアナ」という曲が好きだったので一緒に聴いていたのだ。

彼女の困ったことといったらやっぱり血だった。彼女はよく血を吐いていたのだ。
「内科で診てもらったら?」と言ったこともあった。彼女は何となく曖昧に首をふるだけで、とうとう行きはしなかった。ただ部屋の片隅でCDをずっと聴いていた。家にあったインク・スポッツのCDを何度も何度も聴いていたのだ。
彼女が半年前に唐突に出て行った時、トイレは彼女のものと思われる血で真っ赤だった。それと同時に彼女はトイレットペーパーの予備の中に書き置きを残していった。微かに血の付いたそれには「私にはなにもないから」とだけ書いてあった。

「全てを晒すことは割り切ってるから平気なんだ」彼女はそっと呟いた。ある夏の一日だ。「時々空しいのは、向いてないって思う時だけ。」と言って僕に抱きついた。僕はから笑いをして彼女を抱きしめた。驚くほど彼女は真顔で、何の表情も貼り付けられなかったようだった。
「貴方は私と似ているね。」とちょっとだけ笑って僕の胸にまた顔を埋めた。でも僕には、さっきの感情のない顔が頭にずっとこびり付いたまんまだった。本当に空っぽなんじゃないかと思ったほどだった。それは思ったほど外れてはいなかった。


僕はその男と別れて、彼女の死んだ二番線のホームで電車を待っていた。
別に彼女の死んだ理由とか、彼女が半年間どうしていたのか、そんなことにはあまり興味はなかった。一応僕の前から姿を消してから一度、彼女の親戚の家にフラッと顔を出して書き置きを僕の時と同じようにトイレットペーパーの予備の中に隠していたらしく、内容は遺書のようだった、と言っていた。本人の希望により詳しい内容は伏せられていたが、おおまか「人生の辛さに挫折しました」といった内容であるらしかった。

「私にはなにもないから」電車を待つ間にそう呟いた。同じように電車を待っていた人々は誰も僕の言葉など聴いていなかった。彼らは携帯の画面とノイズキャンセリング・イヤホンによって視聴と聴覚を奪われている。「私にはなにもないから」再度呟いた。
その間に電車の到着を告げるアナウンスが響いて、その場にいた全員が前を向いた。そろそろホームに電車が到着する。僕は一歩を踏み出した。

貴方と私は似ているね、そう言われて抱き合ったことを思い出した。確かにそのとおりだ。僕らは似ている。僕らは空っぽだった。埋め合いも出来ないし、他の誰かが埋めてくれるとも思えなかった。ただ僕らは、お互いの欠落を見て見ぬふりが出来る誰かが欲しいだけだったのだ。

誰かが後ろで叫んだ。少しホームがざわめいた。僕はちょっとだけ笑った。笑った。笑いながら、またつぶやいた。

「私にはなにもないから」

その前に、こんな事を思った。『あの男は、僕がどこかで生きていると何年も思いながら過ごすのだろうか?』と。
そんな下らないことを思いながら、僕は宙空に身を預けた。夏の日に一緒に聴いた「ダイアナ」がなんとなく頭によぎっていた。
「ああ、ダイアナ、分からないのかい?」
ああいい風呂
2013年12月30日(月) 23時12分27秒 公開
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■作者からのメッセージ
JASRACに目をつけられないことを祈りながら書きました。良いお年をお迎えください。

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